konai1229’s blog

仙厓さんが好きな人の日記帳

仙厓めぐり・美濃國編

出生地・武芸川~美濃へ

 仙厓さんは寛延3年(1750年)4月生まれ。美濃国武儀郡、現在の岐阜県関市武芸川町の出身であることがわかっています。

 井藤甚八という貧農の二男か三男に産まれ、まだ幼い11歳の頃に近所の寺の和尚さんにスカウトされ出家得度し、仙厓義梵という名を与えられた…というのが仙厓さんの年表によく書かれる要素です。

 この関市武芸川町と、美濃市を訪れた旅行記とともに、もう少し詳しい紹介ができたらと思います。

 

 2018年4月の仙厓巡り美濃編は、宿泊先の大垣市からスタート。公共交通機関ではここからJR東海道線に乗り岐阜駅で下車、そこからは20km前後の距離をバスで移動することになりますが、今回は大垣に住む私の実母に車を出してもらったので、長良川沿いに北東へ移動します。

 

▼道の駅むげ川から橋を渡った先の高野交差点にて。

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 こんな看板があるとは知らずびっくりした。この交差点は昔よく通った道なのだけど、子供の頃は意識してなかったから気づかなかっただけだろうか。

 この高野という地こそが、まさに仙厓さん生誕の里。この交差点から程近くにある両親の墓が第一目的地です。

 

景久山 永昌寺。

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 仙厓さんの生家については、生前から本人がほとんど語らなかったこともあり、仙厓研究が盛んになる昭和初期頃まで長らく曖昧なままになっていました。

 一番古い記述では、天保9年に仙厓さんの一番弟子・湛元和尚が書き記した『聖福寺仙厓和尚略行実』に『武儀郡谷口村山田氏子也』と記されていますが、これは誤りでした。仙厓さんの死後聖福寺を継いだ龍巌和尚も、その生家までは知らなかったようです。

 それから近年に至るまで、谷口村の河村甚七家、宇多院の河村甚七家、などと言われ、ほぼほぼ『河村甚七』なる者の息子だったのでは?というのが通説になりつつありました。この河村家には仙厓和尚の位牌が伝わっている、というのが主な根拠だったようですが、これに異論を唱えたのが仙厓研究家・三宅酒壷洞氏でした。三宅氏は、友人の石村萬盛堂・石村善右氏と協力して仙厓さんのルーツを調べました。

 石村氏が現地入りをして調べた結果、河村家は豪農であり、その下男として雇われていた井藤甚八という者が仙厓の実父であることがわかりました。(河村家に伝わる位牌は後年つくられたものでした。)これは、仙厓さんが出家した清泰寺の古老の話と、この永昌寺に残る過去帳から判明したといいます。過去帳には仙厓の両親について

花林常香信士 三月十三日大ノ甚八小吉父(天明八年)

義山妙節信女 正月十八日大ノ小吉母甚八妻(享和二年)

 と記されているそうです。小吉というのは仙厓さんではなく、そのお兄さんとの事。

 ちなみに、兄 小吉の子・由松(つまり仙厓さんの甥?)は、高名な仙厓和尚の血縁者ということで、妙心寺管長無学老師が永昌寺を訪れた際、駕籠役として四里の道を御供した…ということを生前自慢話にしていた…と伝わっているそうです。三宅氏が取材をしていた昭和中期くらいまではまだそういった言い伝えなどが古老から聞けたのでしょうが、残念ながら今はほとんど失われてしまっています。

 

▼両親のお墓の場所は、観音堂に案内の石碑が有ったのでわかりやすかった。

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 見えづらいが記念碑の左に『仙厓和尚 両親之墓』と矢印が書いてある。

 

▼お墓の横にあった石碑。

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 お墓の写真はちょっと自重して撮らなかったのですが、そもそもこのお墓自体、博多で有名になった仙厓和尚の父母だからということで後年になって建てられたものらしい。

 少し上で仙厓には小吉という名の兄がいたことを紹介しましたが、三宅氏の調査ではその子孫は由松、宇助、由太郎と3代ほどは辿ることが出来たのですが、由太郎の時代に名古屋へ引っ越し、その後消息は不明との事。

 結果この両親の墓は現在は無縁仏として、遠縁にあたる方が時々管理をしに来るそうですが、その情報が書かれた三宅氏の本も昭和53年のものなので、現在どうなっているかをお寺の方に訊いてみればよかったな。

 私はには事前アポ取りをして取材、などという高等技術は出来ないので(人見知り、会話が苦手)ただお寺の外観を見学してお墓参りするだけでササッと退散してしまいました。

 

▼武芸川ふるさと館

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 武芸川には『武芸川温泉』という温泉が湧いていますが、小規模なのかいわゆる温泉街っぽい感じではなく、『関観光ホテル 西の屋別館 武芸川温泉』という温浴施設が一軒あるのみです。(知らないだけで、他にもあったらごめんなさい)

 その隣にある『武芸川ふるさと館』は郷土ゆかりの美術作品の展示や地域の方々による写真展などを開催する施設です。その一角に、仙厓コーナーがあるということで見学してきました。

 

 展示室内は撮影禁止だったのでメモ取りだけしたんですが、自分のメモが雑すぎて読み返してもよくわからない…。10点前後の仙厓作品は、まあいつもの仙厓さんという感じでした(やる気のない解説…)。中には書画だけでなく大黒天の陶像もありました。他には仏教学者・古田紹欽による『仙厓』の書や、京都出身の画家・仲田龍安による仙厓和尚肖像画などがありました。定期的に展示替えをしているそうなので、次に行く機会には何が見られるか楽しみです。

 

出光美術館仙厓カレンダーコーナー

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 展示室内の所蔵品は関市が購入したものだと思われますが、補足としてなのかわからないけど歴代の出光美術館の仙厓カレンダーがずらりと並んでいて圧巻でした。

 

▼出光所蔵作品閲覧パソコン(調整中で見られず)

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▼この他、申し出れば映像コーナーで仙厓さんについての紹介ビデオを上映してもらえます。この映像、綺麗だったからyoutubeでも見せてほしいっ!

 

 さて、すぐ隣に温泉はあれど、私の目的はまだ残っている…ということでせっかくの温泉を横目に素通りし、次の目的地へ…。

 

▼ここはどこ…

f:id:konai1229:20180920174912j:plain あまりにも鬱蒼としすぎて不安になり、道に入る直前で農作業していたおばあさんに道を尋ねるも合っている、と…。

 

合ってた。

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乾徳山 汾陽寺。

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 幼い仙厓さんは、汾陽寺周辺の開墾の為山番として雇われた父甚八に付き従い、この寺を遊び場にしていたといわれています。そこへ、当時無住であったこの寺へ輪番に来ていた美濃清泰寺の空印円虚和尚に才能を見いだされ11歳で出家しました。

 

 私が仙厓さんしか眼中にないのでスルーしそうでしたが、この寺は春日局ゆかりの寺でもあるそうです。家光の乳母になるための願掛けとしてこの汾陽寺へ参詣したそうな…。

 春日局といえば父は武将・斎藤利三。この斎藤氏や土岐氏など、武家の影響の強い土地だったこともあり、ここら一帯は禅宗寺院・とりわけ臨済宗のお寺がとても多い場所なのです。仙厓さんも臨済宗妙心寺派ですね。

 

▼本堂。ちいさな仙厓さんはここで遊んでいたのかな。

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 ある日、汾陽寺の庭に集まり遊んでいた子供たちに「数をかぞえる中で『つ』が付かない数は?」と空印和尚が問いかけました。指を数えていちから数える子供たちのなかでひとり「とお」と即答した…いう仙厓さんの幼少時の逸話が伝わっています。出典が不明なので恐らく古老による口伝かと思われますが、子供の頃からとにかく頭が良かったといわれているのでそれも納得なエピソードですね。

 そんな聡明な仙厓さんを、ぜひ禅僧にしたいという空印和尚の申し出で仙厓さんは和尚に連れられて出家得度した…と伝わっていますが、貧しかった井藤家の口減らしに出家させられたという側面もあったのでは?と言われています。

 この武芸川という土地は山と川に挟まれたわずかな平地に集落が密集していて、今でこそちょっとした田んぼなんかが有りますが江戸時代にはもっと痩せた土地だったと思われます。長男として生まれたならば僅かながら継げる家や土地があったでしょうが、二男三男を置いておける余裕は、井藤家には無かったはず…。

 堀和久氏による伝記小説『死にとうない』では、仙厓を身ごもった母は何度も堕胎を試みたが死なず、生まれてしまった息子を汾陽寺に捨てたがそれでも死ななかった…という一節があります。

 実際どうだったかはともかく、武芸川や美濃地方には禅宗寺院が多く、狭く痩せた土地柄ゆえに貧しい家の二男三男は出家するしか道がない…そのような事情で、周辺は多くの禅僧を排出しました。仙厓さんもそのような中の一人だったのでしょう。

 

 そんな、御世辞にも明るく順風満帆だったとは思えない仙厓さんの出自と幼少期に思いを馳せつつ、次は関市のお隣、美濃市へ移動します。

 

安住山 清泰寺

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 美濃市にある清泰寺は、多くの末寺をもつ妙心寺派の巨刹で、この地を治めた金森氏の庇護下にあり、武家の檀家が多かったそうです。

 そんな清泰寺に仙厓さんが来たのは11歳の時。師の空印円虚和尚は、よく人に「このかしこい子を獲たことは老僧が輪番中の一大収穫であった」と語ったといいます。

 仙厓は必死に勉強をし、修行をし、この清泰寺で19歳まで過ごしました。

 

▼綺麗な境内。

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 仙厓さんに関する立て看板的なものも無かったのでさらっと見学・拝観だけして退散(またか)ほんとうに『行って、見るだけ』で終わってるけど、ただ仙厓さんの足跡をたどれればそれでいいので…。

 

 武芸川での幼少期同様、この美濃清泰寺時代のことも、仙厓さんはほとんど語ることはありませんでした。一説では、先輩坊主にいじめられていたのでは、とも言われていますが真相はわかりません。

 仙厓さんは19歳の時に得度の師の元を離れ、空印和尚の紹介で武州永田(現在の横浜市)にある東輝庵という道場へ移ります。そこで更なる修業を積み立派に成長しました。ちょうどその頃にこの清泰寺の次期住職に仙厓さんを推す動きがあったそうですが、清泰時の檀家総代であった武家の河村甚右衛門が「われら武家が水飲み百姓の子である仙厓を和尚と呼び頭を垂れることなどできない」と主張し、住職になることは叶わなかったといわれています。

 さらにそれから時が経ち、博多聖福寺の住職になってからも清泰寺を訪れる機会がありました。開山和尚の遠忌行事に招かれたのですが、そこで与えられた役職は碗頭(わんじゅう)という軽職、いわゆる配膳係。自分たちが見下していた仙厓が、由緒ある寺の住職になって帰ってきたことを妬む者があったのでは。真偽は不明ですが、故郷に錦を飾る想いで帰郷した仙厓さんは、この一件でひどく落胆したことでしょう…。

(ちなみに、地元武芸川の有志により自費出版された『武芸川の仙厓さん』という本には、仙厓さんが自ら進んで配膳役を務めたと記述があり、正直資料が少なくてよくわかりません。個人的には貶めるためにやらされたっぽいと思っていますが、地元目線ではそうあってほしくない、との思いが強いのかもしれません。)

 

 このように、自他ともに認める自らの出自の貧しさ、身分の低さは仙厓さんの中に大きなコンプレックスとして根底に有りつづけ、武家や権力者、金持ちを嫌い、庶民を愛する『博多の仙厓さん』という存在の基礎を作ったのだろうと私は思います。

 

▼最後に、美濃市の観光名所の美濃橋を見学…と思ったら工事中だった!

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 他にも美濃市は「うだつの上がる街並み」という、火災による延焼を防止する『うだつ』が立派に備えられた街並みや、美濃和紙も有名ですね…。それらを観る時間は全然なく、この後帰り道にある古墳をいくつか見ながら大垣に帰りました。

 おしまい!

 

 

 さて、美濃を離れた仙厓さんはこの後現在の横浜市にある東輝庵へ修行に行くことになりますが、そちらを訪問する前に東輝庵を去った後の行脚先を訪ねてしまったので、時系列はバラバラになりますが次回は諸国行脚・福島編として書きたいと思います。そのうち。