仙厓めぐり・初めての福岡編3(『白隠さんと仙厓さん』展と太宰府)
九州国立博物館『白隠さんと仙厓さん』に合わせての九州旅行日記。
仙厓めぐり・初めての福岡編1(九州上陸) - konai1229’s blog
仙厓めぐり・初めての福岡編2(聖福寺と出光と石村) - konai1229’s blog
3日目(九州国立博物館~都府楼跡)
出発前に仙厓さんのお墓に挨拶をして、いざ太宰府へ。
この日は本旅行のメインイベント・九州国立博物館で開催された『白隠さんと仙厓さん』を観にいきました。
テンションが上がらないわけがない。
お正月三ヶ日の間に来館した人は記念の手拭いが貰えたそうです。す~~~っごく欲しかったけど、正月は無理でした…。
▼どんより天気の太宰府天満宮参道。街灯には展覧会のタペストリーが。
吸い寄せられて入ってみましたが、仙厓さんのオリジナルグッズは無かった。九博の帰りに、トートバッグや針聞書マステ、銅鐸キーホルダー等を買いました。
こんな風に博物館の外にショップがあるのは面白いですね。そういえばトーハクも門扉の所にありますね。
▼九州国立博物館。
なにげに九博が出来た時からずっと行きたいなぁと思いつつも九州の遠さに尻込みしていて、十数年越しにやっと叶いました。ありがとう仙厓さん、きっかけと勢いって大事。
▼し、心臓がバクバクいう…。
展示室内は撮影禁止でしたので、文章だけで。
▼『白隠さんと仙厓さん』は文化交流展(常設展)の一角にある小部屋で開催されていました。展示物自体は少なく、全部で28点。うち仙厓さんは16点で、すべて聖福寺(幻住庵)蔵のもの。
▼入って最初は白隠さんコーナーですが、まずその圧倒的存在感。高さ104センチの頂相彫刻に表わされた白隠さんの目ヂカラたるや…。さすが日本臨済禅中興の祖といわれるだけあります。正直怖いです。
白隠さんと仙厓さんはよくセットで語られますが、歳の差がかなりあるので(仙厓さんのが65歳下)直接の面識は無かったと思われます。
白隠さんと同世代の禅僧に古月禅材という人がいて、「西の古月、東の白隠」と並び称されていました。仙厓さんはこの古月派に属するといわれています(諸説あり)。
▼今回の『白隠さんと仙厓さん』展にはその古月禅材の頂相も展示されていました。
古月さんは日向(宮崎)出身の禅僧で、数多くの弟子の中から優秀な禅僧を排出しました。その中のあれやこれやの繋がりのなかに仙厓さんの師となった空印円虚、月船禅慧が居り、仙厓さんが美濃から武州へ、そして博多にたどり着くに至る縁となりました。たぶん。
▼仙厓さんコーナーにも、頂相彫刻が展示されていました。…が、そのスケールは白隠さんの約1/5、ちんまりと椅子に座って、ちょっと眩しそうな(?)ショボショボした目つきの痩せた老僧のすがた…。
この像は仙厓さんが亡くなる1か月前に陶工・正木宗七幸弘が写し取った最後の姿だそうです。 白隠さんの峻厳ド迫力とは対極にあるような優しげな小さな像に、涙がちょちょ切れる仙厓ヲタクでした。
▼その次は仙厓作品の中で最大の傑作・寒山拾得豊干禅師図屏風がドーン。他には欠伸布袋図などいつもの仙厓タッチの絵が数点。筥崎の玉せせりや歌舞伎、お相撲の絵などを見ていると、虚白院隠棲後の仙厓さんの楽しそうな日々を想像してこちらも楽しくなります。
▼最後は聖福寺に伝わる仙厓さん遺愛の品。
一生を黒衣で過ごしたといわれる仙厓さんがまさに実際に着ていたという黒衣と袈裟、挂杖、念珠、硯。
私がこの中で特に仙厓さんの存在を感じられたのは挂杖。長さは166.5cmの杖ですが、小柄だったといわれる仙厓さんはこの杖よりも小さかった(推定150cm)そうな…。小さい…か…可愛い…(末期)
▼遺愛の品に囲まれた最期の言葉『遺偈』でおわり。
仙厓さんは死の間際に「死にとうない」と弟子たちに言い、もっとマトモな最後の言葉をくれ!といわれてさらに「ほんまに、ほんまに」と言ったというエピソードがありますが、マトモな言葉もちゃんと残されています。(死にとうないは本当に言ったんでしょうか??)
仙厓さんの遺偈について、解釈は色々あるみたいですが
『たどり着いた場所に立ってやっとその場所の事を知る。その場所を去るときにやっとその場所の事を知る。崖にしがみついてぶら下がってみてもその下がどうなっているかは霞んでいてわからない。わかるのはその手を離した時だけ』
死んだ後のことなんて死んでみないとわかんな~い!
と超意訳して私は読みます。もっと深い読み方があるとは思いますが、難しくてよくわからないので。割と投げやりで刹那的な感じが仙厓さんぽいかな?と思っています。
▼展示自体は少ないのですぐ見終ったのですが、しばらく仙厓さんの陶像のそばで座ってボーっとしていました。
ちなみに私が仙厓さんの名前を初めて知ったきっかけの『南泉斬猫図』(聖福寺蔵)は無かった。またいつかあいまみえたい…。
▼九博の後はレンタサイクルを借りて周辺を巡りました。
太宰府のレンタサイクルの良い所は、スマホ取り付けが出来ること。見知らぬ土地ではナビ必須ですからね。
最初に観世音寺に向かったのですがそれは割愛して(宝蔵すンごかった)、そのすぐ隣の戒壇院へ。
戒壇院は、元は観世音寺の一部でしたが江戸時代に博多聖福寺の末寺になりました。
▼ここへきて今回の旅行で最初の青空を見た。
訪れた当時は全く考えてなかったんですが(頭に知識が入ってなかった)、仙厓さんの東輝庵時代の先輩僧・太室玄昭がこの戒壇院の住職をつとめていた事がありました。その当時、聖福寺の次の住職を誰にするかと問題になっていたところを太室和尚が「ウチの義梵おすすめ!」と(言ったかどうかは別として)推薦したことがきっかけで、仙厓さんは博多にやってきたんですね。
無意識に仙厓さんゆかりの地をひとつ制覇していた。嬉しい。
▼都府楼 こと大宰府政庁跡
仙厓さんの絵にも登場する都府楼。がらんとして何もないですが整備はされていて綺麗な原っぱになっています。
江戸時代はもっと荒れていたのでは…?仙厓さんは当時の都府楼の様子をこう詠みました。
『あれはてし西の都に来てみれば 観世音寺の実相の鐘』
…荒れ果てていたんですね。
▼併設の大宰府展示館。
ここまで来ておいて酷い事ですが、大宰府についてびっくりするほど何も知らなかったので、隣にある大宰府展示館でちょっとお勉強しました。
なるほど、外務省的なやつだったんですね。なんとか人並みには理解しました。
▼大宰府展示館で解説をして下さった係の方のおかげで水城にも興味が出たので、このあと水城東門跡まで行き水城館も見学しました。地の利を生かした街づくりのはなし、とてもおもしろいですね。
(本当は竈門神社と宝満山にも行きたかったけど時間が無かったし、山登りなんてとてもじゃないけど出来ないスケジュール(と体力)だったので諦め。)
【最終日へ】