konai1229’s blog

仙厓さんが好きな人の日記帳

仙厓めぐり・岐阜編

出生地・武芸川~美濃へ

 仙厓さんは寛延3年(1750年)4月生まれ。美濃国武儀郡、現在の岐阜県関市武芸川町の出身であることがわかっています。

 井藤甚八という貧農の二男か三男に産まれ、まだ幼い11歳の頃に近所の寺の和尚さんにスカウトされ出家得度し、仙厓義梵という名を与えられた…というのが仙厓さんの年表によく書かれる要素です。

 この関市武芸川町と、美濃市を訪れた旅行記とともに、もう少し詳しい紹介ができたらと思います。

 

 2018年4月の仙厓巡り美濃編は、宿泊先の大垣市からスタート。公共交通機関ではここからJR東海道線に乗り岐阜駅で下車、そこからは20km前後の距離をバスで移動することになりますが、今回は大垣に住む私の実母に車を出してもらったので、長良川沿いに北東へ移動します。

 

▼道の駅むげ川から橋を渡った先の高野交差点にて。

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 こんな看板があるとは知らずびっくりした。この交差点は昔よく通った道なのだけど、子供の頃は意識してなかったから気づかなかっただけだろうか。

 この高野という地こそが、まさに仙厓さん生誕の里。この交差点から程近くにある両親の墓が第一目的地です。

 

景久山 永昌寺。

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 仙厓さんの生家については、生前から本人がほとんど語らなかったこともあり、仙厓研究が盛んになる昭和初期頃まで長らく曖昧なままになっていました。

 一番古い記述では、天保9年に仙厓さんの一番弟子・湛元和尚が書き記した『聖福寺仙厓和尚略行実』に『武儀郡谷口村山田氏子也』と記されていますが、これは誤りでした。仙厓さんの死後聖福寺を継いだ龍巌和尚も、その生家までは知らなかったようです。

 それから近年に至るまで、谷口村の河村甚七家、宇多院の河村甚七家、などと言われ、ほぼほぼ『河村甚七』なる者の息子だったのでは?というのが通説になりつつありました。この河村家には仙厓和尚の位牌が伝わっている、というのが主な根拠だったようですが、これに異論を唱えたのが仙厓研究家・三宅酒壷洞氏でした。三宅氏は、友人の石村萬盛堂・石村善右氏と協力して仙厓さんのルーツを調べました。

 石村氏が現地入りをして調べた結果、河村家は豪農であり、その下男として雇われていた井藤甚八という者が仙厓の実父であることがわかりました。(河村家に伝わる位牌は後年つくられたものでした。)これは、仙厓さんが出家した清泰寺の古老の話と、この永昌寺に残る過去帳から判明したといいます。過去帳には仙厓の両親について

花林常香信士 三月十三日大ノ甚八小吉父(天明八年)

義山妙節信女 正月十八日大ノ小吉母甚八妻(享和二年)

 と記されているそうです。小吉というのは仙厓さんではなく、そのお兄さんとの事。

 ちなみに、兄 小吉の子・由松(つまり仙厓さんの甥?)は、高名な仙厓和尚の血縁者ということで、妙心寺管長無学老師が永昌寺を訪れた際、駕籠役として四里の道を御供した…ということを生前自慢話にしていた…と伝わっているそうです。三宅氏が取材をしていた昭和中期くらいまではまだそういった言い伝えなどが古老から聞けたのでしょうが、残念ながら今はほとんど失われてしまっています。

 

▼両親のお墓の場所は、観音堂に案内の石碑が有ったのでわかりやすかった。

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 見えづらいが記念碑の左に『仙厓和尚 両親之墓』と矢印が書いてある。

 

▼お墓の横にあった石碑。

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 お墓の写真はちょっと自重して撮らなかったのですが、そもそもこのお墓自体、博多で有名になった仙厓和尚の父母だからということで後年になって建てられたものらしい。

 少し上で仙厓には小吉という名の兄がいたことを紹介しましたが、三宅氏の調査ではその子孫は由松、宇助、由太郎と3代ほどは辿ることが出来たのですが、由太郎の時代に名古屋へ引っ越し、その後消息は不明との事。

 結果この両親の墓は現在は無縁仏として、遠縁にあたる方が時々管理をしに来るそうですが、その情報が書かれた三宅氏の本も昭和53年のものなので、現在どうなっているかをお寺の方に訊いてみればよかったな。

 私はには事前アポ取りをして取材、などという高等技術は出来ないので(人見知り、会話が苦手)ただお寺の外観を見学してお墓参りするだけでササッと退散してしまいました。

 

▼武芸川ふるさと館

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 武芸川には『武芸川温泉』という温泉が湧いていますが、小規模なのかいわゆる温泉街っぽい感じではなく、『関観光ホテル 西の屋別館 武芸川温泉』という温浴施設が一軒あるのみです。(知らないだけで、他にもあったらごめんなさい)

 その隣にある『武芸川ふるさと館』は郷土ゆかりの美術作品の展示や地域の方々による写真展などを開催する施設です。その一角に、仙厓コーナーがあるということで見学してきました。

 

 展示室内は撮影禁止だったのでメモ取りだけしたんですが、自分のメモが雑すぎて読み返してもよくわからない…。10点前後の仙厓作品は、まあいつもの仙厓さんという感じでした(やる気のない解説…)。中には書画だけでなく大黒天の陶像もありました。他には仏教学者・古田紹欽による『仙厓』の書や、京都出身の画家・仲田龍安による仙厓和尚肖像画などがありました。定期的に展示替えをしているそうなので、次に行く機会には何が見られるか楽しみです。

 

出光美術館仙厓カレンダーコーナー

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 展示室内の所蔵品は関市が購入したものだと思われますが、補足としてなのかわからないけど歴代の出光美術館の仙厓カレンダーがずらりと並んでいて圧巻でした。

 

▼出光所蔵作品閲覧パソコン(調整中で見られず)

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▼この他、申し出れば映像コーナーで仙厓さんについての紹介ビデオを上映してもらえます。この映像、綺麗だったからyoutubeでも見せてほしいっ!

 

 さて、すぐ隣に温泉はあれど、私の目的はまだ残っている…ということでせっかくの温泉を横目に素通りし、次の目的地へ…。

 

▼ここはどこ…

f:id:konai1229:20180920174912j:plain あまりにも鬱蒼としすぎて不安になり、道に入る直前で農作業していたおばあさんに道を尋ねるも合っている、と…。

 

合ってた。

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乾徳山 汾陽寺。

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 幼い仙厓さんは、汾陽寺周辺の開墾の為山番として雇われた父甚八に付き従い、この寺を遊び場にしていたといわれています。そこへ、当時無住であったこの寺へ輪番に来ていた美濃清泰寺の空印円虚和尚に才能を見いだされ11歳で出家しました。

 

 私が仙厓さんしか眼中にないのでスルーしそうでしたが、この寺は春日局ゆかりの寺でもあるそうです。家光の乳母になるための願掛けとしてこの汾陽寺へ参詣したそうな…。

 春日局といえば父は武将・斎藤利三。この斎藤氏や土岐氏など、武家の影響の強い土地だったこともあり、ここら一帯は禅宗寺院・とりわけ臨済宗のお寺がとても多い場所なのです。仙厓さんも臨済宗妙心寺派ですね。

 

▼本堂。ちいさな仙厓さんはここで遊んでいたのかな。

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 ある日、汾陽寺の庭に集まり遊んでいた子供たちに「数をかぞえる中で『つ』が付かない数は?」と空印和尚が問いかけました。指を数えていちから数える子供たちのなかでひとり「とお」と即答した…いう仙厓さんの幼少時の逸話が伝わっています。出典が不明なので恐らく古老による口伝かと思われますが、子供の頃からとにかく頭が良かったといわれているのでそれも納得なエピソードですね。

 そんな聡明な仙厓さんを、ぜひ禅僧にしたいという空印和尚の申し出で仙厓さんは和尚に連れられて出家得度した…と伝わっていますが、貧しかった井藤家の口減らしに出家させられたという側面もあったのでは?と言われています。

 この武芸川という土地は山と川に挟まれたわずかな平地に集落が密集していて、今でこそちょっとした田んぼなんかが有りますが江戸時代にはもっと痩せた土地だったと思われます。長男として生まれたならば僅かながら継げる家や土地があったでしょうが、二男三男を置いておける余裕は、井藤家には無かったはず…。

 堀和久氏による伝記小説『死にとうない』では、仙厓を身ごもった母は何度も堕胎を試みたが死なず、生まれてしまった息子を汾陽寺に捨てたがそれでも死ななかった…という一節があります。

 実際どうだったかはともかく、武芸川や美濃地方には禅宗寺院が多く、狭く痩せた土地柄ゆえに貧しい家の二男三男は出家するしか道がない…そのような事情で、周辺は多くの禅僧を排出しました。仙厓さんもそのような中の一人だったのでしょう。

 

 そんな、御世辞にも明るく順風満帆だったとは思えない仙厓さんの出自と幼少期に思いを馳せつつ、次は関市のお隣、美濃市へ移動します。

 

安住山 清泰寺

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 美濃市にある清泰寺は、多くの末寺をもつ妙心寺派の巨刹で、この地を治めた金森氏の庇護下にあり、武家の檀家が多かったそうです。

 そんな清泰寺に仙厓さんが来たのは11歳の時。師の空印円虚和尚は、よく人に「このかしこい子を獲たことは老僧が輪番中の一大収穫であった」と語ったといいます。

 仙厓は必死に勉強をし、修行をし、この清泰寺で19歳まで過ごしました。

 

▼綺麗な境内。

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 仙厓さんに関する立て看板的なものも無かったのでさらっと見学・拝観だけして退散(またか)ほんとうに『行って、見るだけ』で終わってるけど、ただ仙厓さんの足跡をたどれればそれでいいので…。

 

 武芸川での幼少期同様、この美濃清泰寺時代のことも、仙厓さんはほとんど語ることはありませんでした。一説では、先輩坊主にいじめられていたのでは、とも言われていますが真相はわかりません。

 仙厓さんは19歳の時に得度の師の元を離れ、空印和尚の紹介で武州永田(現在の横浜市)にある東輝庵という道場へ移ります。そこで更なる修業を積み立派に成長しました。ちょうどその頃にこの清泰寺の次期住職に仙厓さんを推す動きがあったそうですが、清泰時の檀家総代であった武家の河村甚右衛門が「われら武家が水飲み百姓の子である仙厓を和尚と呼び頭を垂れることなどできない」と主張し、住職になることは叶わなかったといわれています。

 さらにそれから時が経ち、博多聖福寺の住職になってからも清泰寺を訪れる機会がありました。開山和尚の遠忌行事に招かれたのですが、そこで与えられた役職は碗頭(わんじゅう)という軽職、いわゆる配膳係。自分たちが見下していた仙厓が、由緒ある寺の住職になって帰ってきたことを妬む者があったのでは。真偽は不明ですが、故郷に錦を飾る想いで帰郷した仙厓さんは、この一件でひどく落胆したことでしょう…。

(ちなみに、地元武芸川の有志により自費出版された『武芸川の仙厓さん』という本には、仙厓さんが自ら進んで配膳役を務めたと記述があり、正直資料が少なくてよくわかりません。個人的には貶めるためにやらされたっぽいと思っていますが、地元目線ではそうあってほしくない、との思いが強いのかもしれません。)

 

 このように、自他ともに認める自らの出自の貧しさ、身分の低さは仙厓さんの中に大きなコンプレックスとして根底に有りつづけ、武家や権力者、金持ちを嫌い、庶民を愛する『博多の仙厓さん』という存在の基礎を作ったのだろうと私は思います。

 

▼最後に、美濃市の観光名所の美濃橋を見学…と思ったら工事中だった!

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 他にも美濃市は「うだつの上がる街並み」という、火災による延焼を防止する『うだつ』が立派に備えられた街並みや、美濃和紙も有名ですね…。それらを観る時間は全然なく、この後帰り道にある古墳をいくつか見ながら大垣に帰りました。

 おしまい!

 

 

 さて、美濃を離れた仙厓さんはこの後現在の横浜市にある東輝庵へ修行に行くことになりますが、そちらを訪問する前に東輝庵を去った後の行脚先を訪ねてしまったので、時系列はバラバラになりますが次回は諸国行脚・福島編として書きたいと思います。そのうち。

仙厓めぐり・初めての福岡編4(金印と三宅資料)

 九州国立博物館白隠さんと仙厓さん』に合わせての九州旅行日記。

 

仙厓めぐり・初めての福岡編1(九州上陸) - konai1229’s blog

仙厓めぐり・初めての福岡編2(聖福寺と出光と石村) - konai1229’s blog

仙厓めぐり・初めての福岡編3(『白隠さんと仙厓さん』展と太宰府) - konai1229’s blog

 

4日目(福岡市博物館・福岡市総合図書館)

 

 最終日は国宝金印を擁する福岡市博物館へ。金印と仙厓さんにも接点はあるんですよ。

 そのあとは飛行機の時間までぶらぶらしようと思っていたのですが、何気なく入った福岡市総合図書館で意外な出会いが…。

 

▼滞在中の日課・仙厓さんのお墓参りも今日で最期。お別れをいって出発!

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▼目的地へ行く前にまた石村萬盛堂須崎本店に寄り、お土産を買う。

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 買ったのはもちろん仙厓さんもなかと仙厓さんせんべい。包装を待っている間にいただいた鶴乃子、ふわふわで美味し~い。

 

福岡市博物館。周囲には刀剣女子の姿がちらほらと。

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▼国宝金印。

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 この金印が捺印された紙に、仙厓さんの揮毫が残っているそうです(たぶん個人蔵)。そこには発見者は『秀治』『喜平』だと書かれており、発見時の報告書(口上書)に書かれた甚兵衛の名は無い。

 仙厓研究家の三宅酒壷洞氏の著書『博多と仙厓』には、金印は表向きには甚兵衛が見つけたことになっているが、仙厓さんが志賀島を訪れたときにはまだ金印発見時の住人が存命中であり、仙厓さんに頼んで本当の発見者の名前を書いてもらったのでは?とある。

 

▼パネルに仙厓和尚の名前があるだけでニヤける人。

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▼新収蔵品展にあった富田渓仙の掛け軸。

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 仙厓さんと博多の人々との交流エピソードに、素麺屋の富田久右衛門、通称素久さんという人物が出てくる。

 ある日、仕事着のまま仙厓さんの元へおやつを届けに来た素久さん。服は素麺の粉がたくさんついて汚れている。その姿を見た仙厓さんは一度奥へ引っ込み、しっかりと法衣と袈裟を身につけて出てきた。素久さんは「和尚さん、そんなに丁寧にされてはいたみいります」と面喰った。仙厓さんはそれに対し「お前さんが商売道具を着ていなさるのにわしが商売道具の法衣を着ないですむものか」と言った。

 という、町人たちと対等に接する仙厓さんの人柄を伝えるエピソード。

 この素久さんの孫が、上記の富田渓仙です。渓仙は狩野派出身の画家ですが、仙厓さんに傾倒し保存活動にも精力的だったそうです。聖福寺山門の天井画も手掛けています。

 

▼デジタル資料にも仙厓さん。

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ミュージアムショップで見つけた謎の仙厓画(印刷)

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 レジカウンターの脇のダンボールの上に、無造作に置かれたファイルに『仙厓』の文字を発見。けっこう年季の入ったファイルの中にはサイズまちまちの仙厓作品がいっぱい!

 レジのお姉さんに聞いても「いつからあるかわからない」だそうで、由来が謎だったけどとりあえず全部買いました。タイトルがわからなくなってしまうので、一言ことわってカウンターの隅でファイルからタイトルをメモる。

 全部照会したわけではないけど、石村コレクションのものが多いっぽい。

 一番手前にある作品にべったりついた手形、これ仙厓さんの手形なんですって。うわー興奮しちゃうー!弟子の湛元さんに送ったものの包み紙…だったかな?

 

▼この後、博物館内にある読書室で、「聖福寺史」をパラパラめくったり仙厓さん関連で何かないかな~と物色していたとき、思い出した。

 

▼隣に図書館があるなぁ…。(写真左が福岡市総合図書館)

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  という訳で、時間も余裕があったので図書館をすこし覗いてみたら…

 仙厓研究の第一人者(と私は思っている)、三宅酒壷洞氏の寄贈した仙厓資料がぜんぶあるーーーー!!!

 ええ…。すごい…。仙厓さんについて調べた手描きのノートがたくさん…。今この記事を書くのにとても重宝している『博多と仙厓』にまとめられている情報の元が、棚いっぱいに溢れている…。

 手描き資料など貴重なものは鍵がかかっていますが、司書さんにお願いしたら見せてもらえます。これはすごい。

 さすがに全部手に取る時間は無さ過ぎる(何日かかるよ…)ので少しだけにしましたが、いつかじっくり見に来たいですね。

 

▼帰る前に、福岡タワーから福岡・博多の街にお別れを。

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百道浜の海がめちゃくちゃ綺麗で感動した。

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▼初めての福岡旅行、得るものの大きいとても楽しい旅でした。

 本当は、仙厓さん関係の聖地巡礼は仙厓さんの生まれた岐阜からスタートして時系列順に神奈川(修行時代)~東北(行脚)~福岡(定住)てな感じに行きたかったんですが、衝動にまかせて先に博多に行ってしまったのでもう気にしないことにします。

 

【おわり】

 

仙厓めぐり・初めての福岡編3(『白隠さんと仙厓さん』展と太宰府)

 九州国立博物館白隠さんと仙厓さん』に合わせての九州旅行日記。

 

仙厓めぐり・初めての福岡編1(九州上陸) - konai1229’s blog

仙厓めぐり・初めての福岡編2(聖福寺と出光と石村) - konai1229’s blog

 

3日目(九州国立博物館~都府楼跡)

 出発前に仙厓さんのお墓に挨拶をして、いざ太宰府へ。

 この日は本旅行のメインイベント・九州国立博物館で開催された『白隠さんと仙厓さん』を観にいきました。

 

西鉄太宰府駅を降りるとドーン!

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 テンションが上がらないわけがない。

 お正月三ヶ日の間に来館した人は記念の手拭いが貰えたそうです。す~~~っごく欲しかったけど、正月は無理でした…。

 

▼どんより天気の太宰府天満宮参道。街灯には展覧会のタペストリーが。

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▼参道には九州国立博物館ミュージアムショップがあります。

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 吸い寄せられて入ってみましたが、仙厓さんのオリジナルグッズは無かった。九博の帰りに、トートバッグや針聞書マステ、銅鐸キーホルダー等を買いました。

 こんな風に博物館の外にショップがあるのは面白いですね。そういえばトーハクも門扉の所にありますね。

 

九州国立博物館

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 なにげに九博が出来た時からずっと行きたいなぁと思いつつも九州の遠さに尻込みしていて、十数年越しにやっと叶いました。ありがとう仙厓さん、きっかけと勢いって大事。

 

▼し、心臓がバクバクいう…。

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 展示室内は撮影禁止でしたので、文章だけで。

 

▼『白隠さんと仙厓さん』は文化交流展(常設展)の一角にある小部屋で開催されていました。展示物自体は少なく、全部で28点。うち仙厓さんは16点で、すべて聖福寺(幻住庵)蔵のもの。

 

▼入って最初は白隠さんコーナーですが、まずその圧倒的存在感。高さ104センチの頂相彫刻に表わされた白隠さんの目ヂカラたるや…。さすが日本臨済禅中興の祖といわれるだけあります。正直怖いです。

 白隠さんと仙厓さんはよくセットで語られますが、歳の差がかなりあるので(仙厓さんのが65歳下)直接の面識は無かったと思われます。

 白隠さんと同世代の禅僧に古月禅材という人がいて、「西の古月、東の白隠」と並び称されていました。仙厓さんはこの古月派に属するといわれています(諸説あり)。

 

▼今回の『白隠さんと仙厓さん』展にはその古月禅材の頂相も展示されていました。

 古月さんは日向(宮崎)出身の禅僧で、数多くの弟子の中から優秀な禅僧を排出しました。その中のあれやこれやの繋がりのなかに仙厓さんの師となった空印円虚、月船禅慧が居り、仙厓さんが美濃から武州へ、そして博多にたどり着くに至る縁となりました。たぶん。

 

▼仙厓さんコーナーにも、頂相彫刻が展示されていました。…が、そのスケールは白隠さんの約1/5、ちんまりと椅子に座って、ちょっと眩しそうな(?)ショボショボした目つきの痩せた老僧のすがた…。

 この像は仙厓さんが亡くなる1か月前に陶工・正木宗七幸弘が写し取った最後の姿だそうです。 白隠さんの峻厳ド迫力とは対極にあるような優しげな小さな像に、涙がちょちょ切れる仙厓ヲタクでした。

 

▼その次は仙厓作品の中で最大の傑作・寒山拾得豊干禅師図屏風がドーン。他には欠伸布袋図などいつもの仙厓タッチの絵が数点。筥崎の玉せせりや歌舞伎、お相撲の絵などを見ていると、虚白院隠棲後の仙厓さんの楽しそうな日々を想像してこちらも楽しくなります。

 

▼最後は聖福寺に伝わる仙厓さん遺愛の品。

 一生を黒衣で過ごしたといわれる仙厓さんがまさに実際に着ていたという黒衣と袈裟、挂杖、念珠、硯。

 私がこの中で特に仙厓さんの存在を感じられたのは挂杖。長さは166.5cmの杖ですが、小柄だったといわれる仙厓さんはこの杖よりも小さかった(推定150cm)そうな…。小さい…か…可愛い…(末期)

 

▼遺愛の品に囲まれた最期の言葉『遺偈』でおわり。

 仙厓さんは死の間際に「死にとうない」と弟子たちに言い、もっとマトモな最後の言葉をくれ!といわれてさらに「ほんまに、ほんまに」と言ったというエピソードがありますが、マトモな言葉もちゃんと残されています。(死にとうないは本当に言ったんでしょうか??)

 仙厓さんの遺偈について、解釈は色々あるみたいですが

『たどり着いた場所に立ってやっとその場所の事を知る。その場所を去るときにやっとその場所の事を知る。崖にしがみついてぶら下がってみてもその下がどうなっているかは霞んでいてわからない。わかるのはその手を離した時だけ』

 死んだ後のことなんて死んでみないとわかんな~い!

 と超意訳して私は読みます。もっと深い読み方があるとは思いますが、難しくてよくわからないので。割と投げやりで刹那的な感じが仙厓さんぽいかな?と思っています。

 

▼展示自体は少ないのですぐ見終ったのですが、しばらく仙厓さんの陶像のそばで座ってボーっとしていました。

 ちなみに私が仙厓さんの名前を初めて知ったきっかけの『南泉斬猫図』(聖福寺蔵)は無かった。またいつかあいまみえたい…。

 

▼九博の後はレンタサイクルを借りて周辺を巡りました。

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 太宰府のレンタサイクルの良い所は、スマホ取り付けが出来ること。見知らぬ土地ではナビ必須ですからね。

 最初に観世音寺に向かったのですがそれは割愛して(宝蔵すンごかった)、そのすぐ隣の戒壇院へ。

 

戒壇院。筑紫戒壇院、西戒壇とも。

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 戒壇院は、元は観世音寺の一部でしたが江戸時代に博多聖福寺の末寺になりました。

 

▼ここへきて今回の旅行で最初の青空を見た。

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 訪れた当時は全く考えてなかったんですが(頭に知識が入ってなかった)、仙厓さんの東輝庵時代の先輩僧・太室玄昭がこの戒壇院の住職をつとめていた事がありました。その当時、聖福寺の次の住職を誰にするかと問題になっていたところを太室和尚が「ウチの義梵おすすめ!」と(言ったかどうかは別として)推薦したことがきっかけで、仙厓さんは博多にやってきたんですね。

 無意識に仙厓さんゆかりの地をひとつ制覇していた。嬉しい。

 

▼都府楼 こと大宰府政庁跡

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 仙厓さんの絵にも登場する都府楼。がらんとして何もないですが整備はされていて綺麗な原っぱになっています。

 江戸時代はもっと荒れていたのでは…?仙厓さんは当時の都府楼の様子をこう詠みました。

あれはてし西の都に来てみれば 観世音寺の実相の鐘』

 …荒れ果てていたんですね。

 

▼併設の大宰府展示館。

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 ここまで来ておいて酷い事ですが、大宰府についてびっくりするほど何も知らなかったので、隣にある大宰府展示館でちょっとお勉強しました。

 なるほど、外務省的なやつだったんですね。なんとか人並みには理解しました。

 

大宰府展示館で解説をして下さった係の方のおかげで水城にも興味が出たので、このあと水城東門跡まで行き水城館も見学しました。地の利を生かした街づくりのはなし、とてもおもしろいですね。

 

(本当は竈門神社と宝満山にも行きたかったけど時間が無かったし、山登りなんてとてもじゃないけど出来ないスケジュール(と体力)だったので諦め。)

 

 

【最終日へ】

仙厓めぐり・初めての福岡編4(金印と三宅資料) - konai1229’s blog

仙厓めぐり・初めての福岡編2(聖福寺と出光と石村)

 九州国立博物館白隠さんと仙厓さん』に合わせての九州旅行日記。

 

仙厓めぐり・初めての福岡編1(九州上陸) - konai1229’s blog

 

2日目(門司・出光美術館へ)

 この日の目的地は門司にある出光美術館。この時の特別展は『唐物と茶の湯』で仙厓のせの字もありませんが、もしかしたら何かどさくさに紛れて仙厓さんの何かが展示されてないかな?という興味の為。

 先に結論を書いてしまいますが、特に無かったでも楽しかったからいいんです。

 

▼朝。まずは仙厓さんのお墓参りに聖福寺開山堂へ。西門から入ります。

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 が、入ってすぐに注意書きに『撮影禁止』の文字が…。がーん。最初気づかずにちょっと写真を撮ってしまったのですが、ここには載せないでおきます…。

 

▼幻住庵の説明看板。これも撮っちゃだめだったでしょうか?

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 この看板のすぐ横に幻住庵の山門があり、しばらく立ち尽くしたり、中をのぞき込んだり周囲をキョロキョロしたりとちょっと挙動不審な動きをしていましたが、朝早くて人通りも少なかったのでセーフ。

 幻住庵の中にある虚白隠という庵が、聖福寺住職を退いた仙厓さんの暮らしの場でした。現在美術館などで見られる仙厓さんのゆる~い禅画のほとんどはこの虚白院で書かれたものです。

 仙厓さんはここで書や絵をかいたり、畑仕事をしたり、草むしりをしたりしていたんだなぁと想いに耽ります。

 

▼仙厓さんのお墓

 仙厓さんのお墓は聖福寺開山堂の裏にひっそりと有ります。

 お墓の前には灯篭が立っています。この灯篭は、仙厓さんと親交のあった街の人々がお金を出し合って建てたもので、寄進者の名前を見ると、仙厓さんの禅画や伝えられている逸話に登場する人々の名が刻まれていました。

 仙厓さんの事を、街の人たちも大切に想っていた証拠ですね。

 

▼湛元さんのお墓

 仙厓さんのお墓の斜め向かいに『湛元和尚』のお墓も有りました。湛元さんは仙厓さんの愛弟子で、優秀だけど問題児でもあった湛元さんと仙厓さんの師弟エピソードがいくつか残っています。

 湛元さんは仙厓さんから聖福寺の住職の座を任されてから26年後、とある事件から筑前大島へ流刑に処されました。そんな経緯もあって、なんとなく勝手に聖福寺にお墓は無いと思っていたんですがちゃんとありましたね(ごめんね湛元さん)。

 

聖福寺正面。

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 聖福寺は観光寺ではないので、境内の散策は出来ますがお堂の見学などは基本できません。立派な博多塀とか、仙厓さんがいた当時からある鐘楼とか、写真撮りたかったけど我慢です。

 

▼『これくふて御茶まひれ』の電柱。

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 ひとつ上の写真の山門の正面の道(T字になっている)を大博通り方面へ少し行くとこんな電柱があります。博多の町中にこのようなプチ歴史案内が書いてあって面白いです。

 

▼JR博多駅から、特急ソニックに乗って北九州へ。

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  いつもならケチって乗らない特急も、せっかくだからと乗ってみました。電車旅楽しい。途中の小倉、門司あたりで雨はひどい土砂降りに…。

 

出光美術館 門司。

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 出光興産の私設美術館で、創業者出光佐三のコレクションを中心に展示されています。東京の有楽町にある出光美術館の姉妹館的な?

 東京の出光美術館との違いは、こちらの門司には『出光創業史料館』という出光の社史を学べる展示室があります。

 

出光佐三と仙厓さん。

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 出光佐三は学生時代に父親に買ってもらった『指月布袋図』をきっかけに仙厓作品を収集するようになり、それらは今では最大の仙厓コレクションとなりました。「金は出光 目は三宅」といわれるほどに、その財力をもってとにかく沢山買い集めた…のかな?(※三宅とは、仙厓研究家の三宅酒壷洞氏)

 こちらの資料室にも特別展にも仙厓さんのものは何もありませんでしたが、出光さんのことをちょっと知ることができました。

 

▼博多へ戻り、石村萬盛堂須崎本店へ。

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 博多の老舗和菓子店『石村萬盛堂』の二代目社長であった石村善右もまた仙厓に魅せられたひとりであり、多くの仙厓作品が福岡市美術館に石村コレクションとして寄贈されています。

 

▼仙厓さんのお菓子。

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 善右氏は多くの人に仙厓さんの事を知ってもらうために『仙厓さん最中』を売り出したそうです。プラリネクリームを挟んだ洋風せんべい『仙厓さんせんべい』も有ります。以前ネットか何かでパッケージに虎図を用いたとらやきもあった気がしますが、売っていませんでした。

 

▼店内では仙厓グッズが売られています。

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 図録まであるとは知らなかったので嬉しい誤算。

 石村コレクションは、特に仙厓さんと博多の人たちとのふれあいを感じさせる作品が多くあります。上の写真にちょっと写っている「吹け吹けぷぷぷ」と凧揚げする子供の絵もとても可愛くて和みますね。

 

 この日はこれで終了。

仙厓めぐり・初めての福岡編3(『白隠さんと仙厓さん』展と太宰府) - konai1229’s blog

仙厓めぐり・初めての福岡編1(九州上陸)

 2018年1月1日~2018年2月12日まで、九州国立博物館で特別展示『白隠さんと仙厓さん』が開催されました。

www.kyuhaku.jp

 

 福岡…仙厓さんの聖地!(あ、オタクはゆかりの地をこう呼びます)

 初めての九州。もちろん聖福寺にある仙厓さんのお墓参りもしたいし、石村萬盛堂にも行かなきゃだし、九博のある太宰府だって仙厓さんがよく訪れた場所…福岡だけでも行きたいところがたくさん。1月某日、3泊4日の日程で行ってきました。

 

1日目(福岡入り)

 夕方の便で羽田から福岡へ飛んだので実質この日は移動だけで終わらせましたが、博多駅からホテルまで移動する間に聖福寺があるので、夜道をワクワクしながら歩きました。

 

博多駅

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  大好きな仙厓さんが大好きだった博多の街についにやってきたぞ!とひとりでテンション上がってました。小雨が降りだしたけど気にしない。

 

▼安国山聖福寺。仙厓さんのお寺。

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  真っ暗で何も見えません。でもここに来られたことが嬉しくて暫くボーっと立っていました。

 

▼夜ごはんに食べたウエストのうどん。

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 博多といえば豚骨ラーメン、ではなくうどんだと福岡出身の友人しえろ氏に教えてもらった。博多の地を踏めた嬉しさで食欲が減退していたので、柔らかい麺と優しいおだしの味が胃に嬉しかった。

 

▼ホテルの目の前は聖福寺

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 土地に明るい人ならすぐバレそうですが、とにかく聖福寺に一番近いという理由で選んだホテル。良い選択でした。

 

【翌日に続く】

仙厓めぐり・初めての福岡編2(聖福寺と出光と石村) - konai1229’s blog

はじめに

 仙厓義梵(せんがいぎぼん)は、江戸時代後期、博多の聖福寺という禅寺の住職をつとめたお坊さんです。その書画はゆるカワな作風で知られ、その人柄も相まって生前から現代までたくさんの人を虜にしてきました。

 かくいう私(『こない』と申します)も仙厓さんのことが大好きで、2016年に東京国立博物館で開催された禅展で初めて見てから、その作品や生涯を調べるうちにどんどん深みにはまってしまいました。

 このブログでは仙厓さんの展覧会の事やゆかりの地探訪の記録、こない目線から見た仙厓さん語り(ひとりごと)、どうでもいい日記などを書き留めていこうと思います。

 

 不定期更新、書きたいときだけ書くスタイルなのですぐ放置状態になる可能性が高いですが、仙厓さんについて「仙厓さんの事もうちょっと知りたいな」と思った人の足掛かりになれたらいいなと思います。